生い立ち

東京都杉並区で生まれ、4歳まで過ごす。生家は産業道路に近く、町工場が多い場所だったそうだ。私は幼いころから体が弱く、2歳のころ原因不明の「川崎病」を患い、入退院の日々だった。激しい嘔吐や高熱、痙攣をおこし、両親にはずいぶん心配させた。父は、私の病は都会での暮らしが原因ではないかと考え、父の出身地である福島県白河市へ転勤願いを出した。父は高校卒業後、菓子製造卸売業の「株式会社 不二家」に就職し、几帳面な性格から経理部に配属された。白河支店は経理部員が足りていたため、母の出身地である、福岡県へ転勤した。父の転勤により、幼稚園(春日第一幼稚園)から18歳まで福岡県春日市で過ごした。

大学進学より東京に住み、就職は、「世界の金融マーケットは成長期にある。これからは日本が世界の金融大国になる」と考え、大手金融投資会社へ就職した。、東京都大田区にて18歳から現在まで28年間過ごしており、大田区は第二の故郷である。

貧困家庭

多くの政治家が立派な経歴を持つが、私にはこれといって特筆すべきものがない。強いて言うなら、誰よりも貧乏だったことだ。

私が福岡県春日市立春日小学校へ入学したころ、父親は当時春日市にはあまりなかった居酒屋経営を始めた。いまでこそ当たり前だが、パチンコ屋付近にはいくつか飲食店がある。それは、パチンコで儲けた者が景品を換金し、そのお金で酒を飲む。これが、春日市にはなかった。

そのため、父親はパチンコ景品の換金と酒を提供する居酒屋を一つの店舗内で行う業態を創り、経営に乗りだした。居酒屋で飲食する大半の方は、パチンコで儲けた者。単価を多少あげても客足が減ることはなかった。

父は幼いころ税理士になるのが夢で、不二家に勤務していたころも、知り合いの税理士事務所に頼み、税理士としての仕事を学んでいた。その甲斐もあってか、事業は上手くいき、気が付けば多数の店舗を経営していた。生活水準がどんどん良くなり、いつの間にか、父は地元でも一目置かれる存在になった。そんな父を、私は子供ながら誇りに思っていた。

しかし、経営が傾くのは意外に早かった。母に聞くと、父親が事業拡大を急ぎ、多額の借入を銀行やサラ金業者からしたため、資金がショートした。

つい最近まで、父は名士としてもてはやされていたが、金がなくなると、まるで潮が引くように、友人や親戚が去っていった。近所の子供は、私達兄弟をからかい、時にはイジメを受けるようになった。子どものイジメは容赦がない。言葉だけでなく時に暴力もある。私は、幸い、幼いころから少林寺拳法を習っていたので、直接のイジメはなかった。

ある時、クラスの友達をみると、イジメを受けている子、それを傍観している子がいることに気が付いた。いままでイジメを考えたこともなかったが、経済的理由によりいじめを受ける子がいて、それを見てみぬふりをする子がこんなにいることを知った。こんなことが許されるわけにはいかないと、私は生徒会長になり、いじめと戦った。振り返ってみると、直接的な成果はなかったが、多少の抑止力にはなった気がする。

ある日、学校から自宅に帰ると父と母が喧嘩をしている姿をみた。どうやら、借金の返済についてのようだった。隣には、サラ金関係者が何人も居座り、父を脅していた。このような日々が数カ月続き、あるとき、自宅へ帰ると、父は借金を残し、母と私達子供3人を捨てて蒸発してしまった。

母は私に「テルちゃん、一緒に死のう」と泣きながら抱きしめてきた。私は、「死ぬなら1人で死んでくれ。俺は生きる」とはっきり断った。逃げたら終わりだと「自立」を意識するようになった。これも、イジメと戦っていたからだと思う。

学生時代

福岡県春日市立春日中学校に入学し、兄の勧めで野球部に入部した。兄は私と違い運動神経が優れ、エースで4番、キャプテンもしていた。兄が中学校を卒業した年に、私が同じ中学校へ入学したため、先輩部員は私にかなりの期待をしていた。私は、兄とは違い球技が苦手だったため、その野球センスの無さに、あっけなく入部を断られた。

あまりにもあっさり入部を断られ、初めて自信喪失を味わった。

人に認めてもらいたいと強く感じ、次は、水泳部の門を叩いた。御世辞にも強い水泳部ではなかったので、1年生から、大会に選手として出場させてもらうようになった。2年生の福岡県大会新人戦では、平泳ぎ100メートル1位、200メートル3位と力をつけ、3年生の中体連は九州大会へすすみ、あと一歩のところで、全国への道を閉ざした。

中体連が終わり、今後の進路について、母と共に担任と面談した。私立高校と公立高校の授業料の違いを担任から聞き、その金額の差にびっくりした。「進学するなら公立高校じゃないと授業料が払えない」と母に言われ、ランクを2つ下げ確実に合格できる高校を選択した。

当時、高校選択はさほど重要と考えていなかった。それより、借金返済で苦しむ母に負担をかけたくないとの気持ちでいっぱいだった。

無事、福岡県立大宰府高等学校へ入学が決まった。幸い、特別進学コースという国公立大学受験コースがあり、私は、特別進学コースに入ることになった。しかし、高校生活は退屈の毎日だった。早くバイトをして生活費を稼ぎたいと考えていたが、16歳からでないと働けないと断られた。約一年、待つことに苛立ちを感じていた。ほとんど勉強しなくても、高校内での成績は上位に入った。校内の、学業に対する意識の低さを感じていた。

そんなとき、兄がバイク事故を起こした。膝が割れ、半年近く歩けない状態だと聞かされた。兄は泣きながら、「すまん」と私に謝ってきた。事故を起こし心配させたことを謝っていると思っていたが、意味がちがった。高校を辞め、働いてくれと。兄の泣く姿を初めてみたとき、仕方ないと思い、「分かった」と伝え、短い高校生活が終わった。

出会い

生活費を稼ぐため、バイトの職種を選ばず、15歳からでも働ける仕事をした。高校生活という経験はなかったが、早くから社会を見ることもいいことだと感じた。自分で働き、金を稼ぐ充実感、物が流通するまでの過程、マーケティングまで学べ、高校では味わえない刺激があった。

友人やバイト先の先輩は、私の将来について心配してくれたが、今の生活が大変なのに余計なお世話だと、反発した。あのころは、反発や「いまにみていろ」という気持ちが心の支えで、本当は、現実を見たくなかった。将来に希望がみいだせなかった。

ある時、街を歩いていたら、中学時代の担任である松延先生と出会った。松延先生は今の私の現状を知っていたのか、「どうだ、大検を試してみないか? お前なら、簡単だ。」といわれた。大検の存在は知っていたが、その先に、大学進学の道もあると教えてくれた。

いままで、もやもやしていた心に一筋の光が差すかのような希望が見えた。私は、直ぐに本屋に行き、大検の参考書を手にした。流石に、数年勉強から遠ざかっていたので分からない問題ばかりだったが、1年あれば何とかなるという手応えを感じた。よし、大学に進学しよう。そのためには、大学の費用を稼ぐためもっと働かないといけない。東京なら仕事はあるし、チャンスもあるだろうと考え、鞄1つで東京の友人宅へ押しかけた。

それからの私は、全く休日なしで働いた。体力には自信があったので、働きながら勉強し、大検を取得。その年には大学受験をし、産能短期大学能率学部へ入学した。大学での思い出は、ほとんどない。毎日、バイトと図書館、大学の往復の日々だった。そして、誰からの援助もなく、学費や生活費、妹の授業料も仕送りし、無事、大学を卒業することが出来た。あの時、偶然、松延先生と出会わなければ今の私はなかっただろう。教師という存在は、ただ学問を教えるだけでなく、人生の選択に関わる極めて重要な存在だと感謝している。

サラリーマン時代

私は、「世界の金融マーケットは成長期にある。これからは日本が世界の金融大国になる」と考え、大手金融投資会社へ就職した。今でも思い出せば恥ずかしい話だが、ホテルの大会場で入社式が行われ、新入社員筆頭に選ばれていた私は、こともあろうに、当時の社長に向かい「私は、この会社を世界一の金融会社にし、30歳までに社長就任致します」と大きな声で発した。父兄の失笑と唖然とする役員。しかし、南社長は「君は声が大きいな。うん、分かった」とおっしゃり、懐の深さを感じた。

人はみな今日より明日がよくなると信じて頑張っている。シンプルに考えれば人生、日々、改善かもしれない。サラリーマン時代はよく残業した。当時、子どもの寝顔を見た事がないというセリフは頑張る人の勲章だった。私は本店第一リテール営業部に配属された。国内金融商品を個人へ仲介し、お客様の投資リテラシーの向上、資産保全のためのポートフォリオを提案し、ずいぶん喜んでいただいた。

入社4年目で課長職を命じられ、29歳では、日本ファースト証券株式会社の専務取締役営業本部長に就任した。出世が早かったのは、母親を楽にさせたいという明確な目標があったこと、仕事を教えてくれた先輩、厳しくても頑張ってついてきてくれた部下のおかげだ。その気持ちは、今も忘れていない。

起業

日本ファースト証券株式会社は、未上場の会社であったがFX取引をいち早く取り入れた金融派生商品のトップ企業であった。そのため、上場企業として直接金融からの資金調達が急務であり、会社を代表しIR活動やマスコミ対応をする日々だった。あるとき、緊急役員会議が開かれ、取締役解任を言い渡された。当時は、なぜこのような仕打ちをと悩み苦しんだが、当時の企業オーナーは経営改革を望んでなく、序列や協調性を大切にする考えだ。社内秩序を保つためには、若い私の抜擢は不満を生む要因になり、株主としては仕方のないことだったと思う。

これからどうしようか悩んでいたころ、久しぶりに会った上司に「会社を作ろう。お前が社長になるといえば、優秀な人材は集まる。会社設立や煩わしいことは代わりにやるから、お前がオーナー社長として、見返してやろう」といわれた。そういえば、最近、10代のころの反発心や「いまにみてろ」という気持ちが全くなくなっていた。つまり、有頂天になり周りが見えていなかったことに気が付いた。

30歳で、コスモFXジャパン株式会社のオーナー社長に就任した。当時は社員4人。資本金1000万円の小さな会社であったが、FX取引に関しては営業も経営も経験を積んでいたので、3年目には資本金1億円、社員200人程度の会社に成長した。その後も、時代に即した新しい金融商品開発を続け、気が付けば、日本プライマリー株式会社のオーナー社長として子会社7つの経営指南をした。

念願だった母の借金は完済でき、苦労をかけた母にマンションをプレゼントできた。また、故郷である福岡県春日市に、貧困で苦しむご家庭に少しでも希望をと、寄付と今までの経緯を話し、井上春日市長から直々に表彰され、やっと、貧困から脱出できた。

生き甲斐

会社も軌道に乗り、あわただしかった日々から解放され、起業後初めて長期休暇をとった。それは、世界一周旅行をするためだ。南アフリカー南極―トルコ~イースタン島と16か国を回った。世界遺産はどれも素晴らしく、宗教文化、国の制度など多岐に刺激を受けた。ペルーでは日系人がガイドに付き、いろんな話をした。その際気が付いたことは、政権が民衆から富をとりあげ、民衆は貧困が当たり前になっていることだ。政治家は税の徴収分配、法律を作ることが出来る。それを間違った方向に使えば、中世の奴隷制度のような国になると感じた。帰国する飛行機の中で、日本は本当に恵まれている。貧困を経験したつもりだが、外国ではさらに悲惨なことが当たり前のようにある。改善するには、やはり政治の力が必要だと思った。

私はまず日本の税制や会計について勉強しようと、文京学院大学大学院経営学研究科に入学し経営学及び税法を学んだ。経営学修士となっても、まだ、勉強が足らないと思い、さらに、LEC会計大学大学院高度専門職会計専攻に入学し、会計学修士となった。税理士科目試験も受験し無事合格を果たした。

公平な税制こそが公平な政治である。そして政治は国民の生活を豊かにするものであり、政治家は具体的な政策を実行しなければならない。そのためには、自分が本当に得意とする分野を持つべきだと考える。一つのことを本当に勉強すれば、その知識は、必ず他の分野にも応用が利くはずだからだ。

私は貧困の経験、サラリーマンの経験、経営者の経験をもち、さらに大学院で学び経験を論理的に説明することが出来る。自治体の置かれている厳しい状況や根深い問題は、専門性の高い実務家がいないと解決できないこともある。希望が持てない若者、貧困の連鎖、少子高齢化、これらはいままで社会の構造改革を怠ってきたことが原因だ。

未来の展望を明るくするためには、100年後を見据えた社会のグランドデザインを描き、次の世代のための政治が必要である。そのために、残りの人生をかけてみたい。それが、私の「生き甲斐」であり、使命だ。想像もできないくらいの希望と、誰もが産まれてきてよかったと思える社会を残したいと願う。